人生詰んだニートのブログ

人生詰んだニートが「日々の愚痴」や「趣味の将棋」について書いているブログです。

仏教を信じているニートは死にたくなっても自殺しない方がいいかもしれない

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ニート記事でよく書いてるのが「死にたい」系の絶望記事なんだけど、そんな記事ばっかだとやっぱ良くないかなぁって思ったりします。


なので、たまには「ニートの自殺を止めてみる」的なちょっと前向きな記事でも書いてみようかな?って思いました。


いや、別に「自殺はよくないよ、生きようよ」って正論を偉そうに語るわけじゃないから安心して。


この間、ニートにとってちょっと死ぬのが損になるかもしれない話を聞いたからさ、その話でもしようかと思って。


「死んだら楽になる」「無になる」「全ての悩みを解決できる」


と思っていた私にとってちょっとめんどくさい話をね。


まぁほとんどのニートには響かない話なんだけど、ニートの中にも信心深い人もいるのかな?って思って、一部のニートに響くかもしれない話をしようかと。


今からする話を聞いたら「え?死ぬの損かも・・・だったらダラダラ生きようかな」って思ってしまうニートが出てくるかもしれません。

キッカケは法事、まずは愚痴でも聞いて

ついこの間、法事があってさ、3回忌だか7回忌だかそういうやつ。


お坊さんを家に招いてお経を読んでもらって、お墓でもお経を読んでもらって、故人を偲(しの)ぶイベントね。


私はあんまり、あの世とか死後の世界って信じてないからこの手のイベントは嫌いなんだけどね。


無いものに対して思い込みで儀式をするって何かね・・・頭おかしいんじゃないの?って気がしなくもなくて・・・


まぁこの手のイベントは死んだ人の為ってよりも生きてる側の人の為にやるんだと思ってるけどね。


故人への気持ちを整理させる為にやるんだろうから、故人への思いが強い人にはいいイベントなんだとは思う。


私みたいな人には重い溜め息がでるほど無駄だけどね。


めんどくさいなぁ・・・早く終わらないかなぁ・・・としか思えなかったから。


だってさ、あの世があったら嫌じゃない?


死んだら「無」になりたいのがニートの望みじゃないですか。


全てを消失した何でもない存在になりたくて「現実」とか「苦痛」とか「希望」とか、そういうゴチャゴチャした感情を忘れ去りたいから自殺するんだしね。


「あの世がある」


この発想は「無」になりたいニートには絶望でしかありません。


死んでもまだ続く人生的なものがあるなんてやってられないから。


まぁ幽霊みたいにただそこに留まって何もしないでいいならいいんだけどさ、それでも苦痛は苦痛だしね。「無」が一番だよね。


この「死んだら無」理論を理想としているニートが私なんですが、その理想を覆す理論を持っているのが仏教なんです。


知らなかったんだけど、我が家の宗派?だか何だかは仏教に属してるみたいなんだよね。


お経を読んでもらった後、お坊さんからお話があったんだけど、そこで仏教として埋葬されるとニートにはめんどくさい事実になる事を知りました。


もし信心があって仏教を信じているニートには死ぬ事を迷うかもしれないお話でした。


仏教って死んでからも大変らしいよ

お坊さんからのありがたいお話として仏教の考え方についての話がありました。


死後の話についてね。故人は今、あの世で何をしているのかって話。


故人を思う人にとっては気になる話なのかもしれませんね。


あの人は今、あの世で幸せにやっていると言ってもらえれば心も安らぎますしね。


「あの世で何をしてるも何も無になるんじゃないの?」と思っているニートにはちょっと嫌な話でもあります。


あの世があるというのは、ニートの理想「無」とは逆の発想ですからね。


でもお坊さんが言うには、仏教の場合、死んだからといって「無」にはならないんだそうです。


「え?マジで?もう楽にさせてあげてよ・・・」って思っちゃいます。


仏教では、あの世に行ってからは「仏様になる為の修行」をするんだそうです。


あの世で修行?界王拳でも学んでるの?なんてドラゴンボール世代の30代は思ってしまいますけどね。


要は、死んでからも楽になれずしっかり立派になるために頑張らなきゃいけないという事です。


超めんどくさくね?


その話を聞いて、私は「え?マジで?死んでも楽になれないの?」ってちょっと絶望感がありましたよ。


まぁ信じてはないんだけどね、でもそういうのがあるっていうのはちょっと嫌じゃないですか?


完全に無いとは言い切れない微妙な世界じゃないですか。あの世って。


誰も見たことはないけれど、無いと言い切れるか?って聞かれると微妙な感じになりますよね。どっちか分からないから。


もしあの世があったらそういう事をしなきゃいけない可能性もなくはないって事ですから厄介ですよね。


それに、仏教に属してる人があの世に送られる場合、仏教式にあの世に行く事になります。


もし、本当にあの世があったら、仏教に属してる私は修行をしなきゃいけなくなるんですよ。


すっげぇ嫌。


毎日毎日、働きもせず、ネットだけして、ダラダラダラダラ生きているっていうのに急に修行なんて・・・無理よ。


死んで楽になれると思って自殺するのにさ、その先には今の生活より大変な修行が待っているなんて・・・


修行するくらいなら生きてた方がマシじゃない?まだ怠けられるし・・・楽だし・・・ 


そう思いました。ニートのみなさんもそう思いませんか?


辛い事を耐えられないから死ぬのに、死んだ先にそんな地獄みたいな修行が待っているなんて嫌じゃない?


ニートなのに修行に耐えられる精神は持ち合わせてないしね。


だから仏教を信じてる信心深いニートがいたら「ちょっと死ぬのをためらわない?」って思いました。


「自殺はダメだよ、生きようよ」


っていう反吐がでる止め方じゃなくてさ


「死んでも修行で辛いならダラダラ生きてた方がよくない?」


っていうニートらしい止め方。


「いかに楽をするか」っていうクズ人間らしい考え方ですね。


仏教を信じているニートの皆さん、死んだ方が多分辛いですよ、大変ですよ。


ダラダラ生きてた方が楽な可能性が高いです。とりあえず死ぬのやめようかなって思いませんか?


ニート教を立ち上げたら流行ったりして

宗教って結局はどこかの誰かの思想に寄り添って信じて生きるっていう事じゃないですか。


じゃあさ、新たにニートに向けた宗教を立ち上げたらどうかな?なんて思いました。


ニート教」


なんてね。思想はただ1つ。


「死んだら無になるから楽になれるよ、あの世なんてないから」


コレだけ。でもこういう考え方になるだけでも楽になれない?


世間一般の宗教では「死後の世界はあるもの」というのが一般的で、死んでからの事も考えて生きなきゃいけないのが多いからね。めんどくさいしね。


「死ねば楽になれる」


これを本当に信じられれば「最後は楽になれるのなら生きてる内は少し頑張ってみようかな」って思える人も出てくるかもしれないよね。


何か1つでも楽になれる思想を持てるなら宗教に入り信じるというのも悪い事じゃないかな。


まぁ私が立ち上げたらニート教の教祖は私って事になるんだけどね・・・なんて薄っぺらい宗教なんだ・・・


カリスマ性が皆無で宗教なんて立ち上げられるわけない・・・


宗教を作るにはカリスマ性が重要、でもニートにカリスマ性なんて無い、無理だねこりゃ。


ニートを拝む人なんて現れたら世も末だし・・・


それに仮に宗教を立ち上げても、急にめんどくさくなって教祖が辞めちゃうリスクがある宗教になる可能性大。


ニートらしいクソ宗教ですね。発展する見込みが無さすぎる・・・


宗教を広めるって言うのはそれはそれで大変な事なのかもしれませんね。


そう考えると仏教だろうとキリスト教だろうと、宗教を広めた人ってすごい人なんだなぁ・・・


最後に

仏教を信じている、もしくは家が仏教に属している、そういったニートに自殺はオススメできません。


死んだ方が大変だから。


修行だって、修行。そんなんできないよね。


でも死んだ後はもう死ぬっていう逃げ道もないから辛い修行に耐えるしか道がないっていう地獄。これは嫌。


仏教徒ニートはダラダラ生きてる方が幸せかもしれないよ?


「あの世なんてあるわけねぇ」


そう思っている人が大半かもしれませんが、本当に無いと言い切れるのか・・・


「魂なんてあるわけねぇ」


そう思っている人が大半かもしれませんが、本当に無いと言い切れるのか・・・


死んだら「無」になるという保障はあるようでなかったりするんですよね。


もしかしたらあの世があるのかもしれませんし魂もあるのかもしれません。


そうなると無になりたいニートには困りますよね。


ちょっと死ぬのを迷ってきませんか?自殺して楽になれなかったら報われないじゃないですか。


まだダラダラ生きて、たまに美味しい物食べて、小さな幸せを味わってる方がマシなんじゃないかって思ってきませんか?


「死んでも得しないかもしれない」


こういう理由で生きてみるのもニートらしくていいんじゃないかと思います。


「別に自殺は止めないよ?でもその先には余計に大変な思いをする可能性があるかもよ?」


って話でした。


仏教を信じている死にたいニートはちょっと考え直してみるのはどうでしょうか?


死んでも楽になれないかもしれませんよ?